『俺をおいて、逝くな』心の中で、大きな声がした。


伯父が亡くなった。大好きな伯父だった。

50才も齢ははなれていたが、酒を酌み交わしながら、笑顔で語り合えば、そんな事など何一つ関係ない。「まぶさん、まぶさん!」と名前をつづめて呼んでくれた、あの温かい、包み込むような声が、今でも忘れられず、心の中で響いている。

母と同じ、瀬戸内海の小さな島の生まれだった。海の男だった。戦前は船を借り、嫁子供とその船の中で寝起きしながら、大きな船舶から港へと積み荷を運ぶ人夫をしていたと、ある酒の席で聞いた。娘は家でもあり、仕事道具でもあるその船から、陸の学校へ通っていたらしい。まるでどこかの東南アジアの国の出来事のような、その話のはしばしから、この国の、地の底からの生活の歴史が伝わってくるようで、うん、うん、と頷きながら、ビールの入ったコップを片手に、私はさらに話しに聞きいっていった。

生暖かい海の波の上で、夜明け前のまだ薄暗い、青い光の帯にゆられながら、横たわったまま目を覚まし、じっと沈黙の内に息をひそめている、伯父、伯母、そしてまだ幼い娘のことを思った。そしてある日、その船の上から、彼方の広島の方角に、大きな光が輝くのを視たのだと言った。それは1945年8月6日、終戦の直前に投下された、原子爆弾の光だった。

終戦後、伯父は神戸の地に上がり、ネジを切り出す町工場を始めた。毎日毎日朝4時には働き出していたという彼は、文字通り人の3倍は働いていたのだろう、これ以上ないほどの簡素な暮らしの中で、決して少なくない額のお金を蓄えていた。そしてそれらを必要としている人に貸し与えていた。我が父も、この伯父に借りたお金で、自営業をはじめていた。それをずいぶん後になって知ったのだった。そうした中、私は京都の大学に入り、この家を一人で訪れ、初めて酒を酌み交わしたその数年後に、あの阪神淡路大震災が起こったのだった。

電車のかろうじて通じていた西宮北口から、何時間もかけて、どれが真っすぐ立っているのか分からないほどの倒壊した建物群とガラスの破片を抜け、焼け焦げた土地を歩き、確か線路沿いの家だったという朧げな記憶のみを頼りに歩き続けた。その金網をへだてた線路わきの道路で、完全に潰れた家屋の前で立ち尽くしている伯父を見つけたのだった。喜びを押さえきれず、私はいそいで駆け寄った。見ず知らず若者に突然話しかけられたと思ったのだろう、怒りとも苦しみも知れない伯父の顔が、慌てて深くかぶっていた帽子を脱ぎ、私が名前を告げたとたんに崩れ、今にも泣き出しそうになったその瞬間を、忘れる事は出来ない。

その後工場の再建はあきらめたものの、家族と愛媛へ移り住み、晩年には立派な家を建て、89才の生涯をその自宅で家族に看取られながら終えた伯父は、様々な苦難の多かった人生であっても申し分のないものだったのではないかと思う。知らせを受け、京都から急いで愛媛へと戻り、葬儀に駆けつけ、棺桶の中の伯父の顔を見ても、それほど動揺をしていない自分に、安堵していた。久々に会った兄と受付で談笑をしながら、その後の葬儀も、気持ちを込めて焼香を捧げながらも、穏やかに過ごしていた。今おもえば伯父の肉体が、まだそこにあるという、無意識の安堵だったのだろう。

葬儀が終盤へとすすみ、棺を会場の中央にすえ、蓋を閉じ、皆でそのまわりに釘を打ち付ける段になって初めて、これが伯父に会う最後の機会なのだという思いが、突然、胸に迫り上がってきて、とめどなく、涙が溢れ出て来たのだった。

『死ぬな』 『俺をおいて、逝くなよ』

繰り返し繰り返し、胸の中から響いてくる声に煽られるように、鳴り続ける棺に釘を打ち付ける音の中で、どんどん涙が溢れてくる。ハンカチで拭っても拭っても、次々と、次々と。

例え50年、齢が離れていようとも、まるで親友のような間柄だった。

親しく共に、濃密な多くの時間を過ごした人物が亡くなるとき、まるで自分が、あたかも不合理で、不条理な劇の中にひとり、取り残されたように感じるのだった。

朝日のまだ射してこない、薄暗い青い部屋の片隅で、私はひとり、こう思う。

伯父よ、今あなたは、どこにいるのだろうか?

「まぶさん、まぶさん」と呼ぶ、あの優しい声がする。

この人生という、不条理な命の劇の中で、無駄に生きている時間は一瞬たりともない。

そうあらためて感じた。

立派な、大きな、真っ白の、伯父らしい、美しい骨だった。


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